無限(夢幻)のはなし

  • 2017.07.22 Saturday
  • 14:51

現代の肖像 森田真生 eAERA Kindle版

 

独立研究者と名乗る一人の若者がいることを知った。昨年、彼の著書『数学する身体』を読んで、その若者の生き方に驚愕した。年老いて、夜寝てから2,3時間で目が醒めてしまうことがある。そんなとき『数学する身体』を数ページ読むことをやってみた。一般に小難しい印象のタイトルの本だが、これが不思議に合うのである。妙に落ち着く。

 

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こんなことで気になる若者だったのだが、アマゾンでこの記事を見つけた。2012年10月1日号「AERA」に掲載された短い記事なのだが、実に愉しい。

 

 不思議なことに、数直線から適当に数を一つ選んだとき、それが計算可能数である確率は0ということが証明できます。(森田)

 

計算可能数というのは何かしらの計算手続きに置き換えられる数のこと。整数や分数は無論のこと、数学に出てくる数のほとんどは計算可能数であるという。一方、どんな計算手続きにも置き換えられない数があってこれを計算不可能数という。

 

しかし、研究者の上記の言葉によれば、数直線上のある数を指定?したとき、その数が計算可能数である確率が0という訳である。数学で扱う数のほとんどが計算可能数であると言いながら、舌の根の乾かぬうちに、計算可能数を選べる確率は0であると言う。

 

この話はカントールの「集合論」から来てるらしい。数直線上の計算可能数は可算無限個しか存在せず、さらに無限の中では一番小さい無限であるとのこと。一方、計算不可能数は非可算無限個も存在し、数直線全体からすれば計算可能数はないに等しいのだという。しかし、不思議なことに現実に手に取れるのは計算可能数ばかりである。無限空間の話は本当に面白い。ビックリ、ワクワクである。

 

 僕はこの世界もそうではないかと思うんです。僕らに見えているもの、意味がわかるもの、実態を持っているものって無数にあるように見えるんだけれど、それらの背後に一切アクセスできないものがあって、それらが世界を支えているのではないか。小学校で習う数直線という素朴な線ですら、そんな深遠なメッセージを伝えてくれる・・・。(森田)

 

もしかしたら、自然、社会という実世界も、数学という抽象の世界と同様に計算不可能数で埋め尽くされているのではないか。宇宙のダークマター、ダークエネルギーすら未確認ではあるが計算可能数の範疇であると想像すると、その背景には一体どんな無限(夢幻)の世界あるのかと気が遠くなる。

 

しかし何故か、このような意識はじぶんを力づけてくれる感覚を伴う。さらに、科学も宗教も関係者が思うほどには達しておらず、まだまだなんだなという認識を覚える。

 

 ですよね! 計算不可能数は、その数の存在そのものが意味となっていて、他のいかなる意味にも回収されない。そこが素晴らしいんです! たとえば映画でも『感動物語』とか圧縮した意味に回収されちゃうじゃないですか。だったら見に行かなくてもいい。どんな意味にも回収されないからこそ、その存在の全体が意味になる。数直線上にその数全体でしか意味を表すことができない数がほぼ100%というのは、なんか勇気づけられるな! 僕の人生も簡単な意味に回収されるなら、生きなくていいわけですよ。意味に回収できないからこそ、人は実際に生きてみるしかないわけです・・・。(森田)

 

関連投稿: 新しい数学の見方 (2016/10/16)

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