ホモ・サピエンスの秘密?

  • 2017.08.21 Monday
  • 15:00

一月ほど前、店頭で目に留まり買った雑誌、インフォビジュアル研究所・著『図解でわかる ホモ・サピエンスの秘密』(太田出版)、今回の投稿記事のタイトルは雑誌のタイトルそのままだ。編集者、グラフィックデザイナー、CGクリエーター数名から成るインフォビジュアル研究所の図解シリーズの一冊だ。

 

やはり、ホモ・サピエンスは気になるキーワードだ。昨年の12月は上野の「世界遺産 ラスコー展」に出かけた。異様に感じられるが、今世界中に増殖、拡散している人類は民族に関わりなくホモ・サピエンスという同一種に属するというのが定説だ。

 

ホモ・サピエンスは約20万年前アフリカに誕生し、約5万年前にアフリカを出て大陸間を移動(グレートジャーニー)した。日本列島にも4万年ほど前から移動が始まったと言われる。

 

 人類はいま、急激なグローバル化がもたらした歪みを正し、幸せを生む新たな社会システムを求めて、次のステージに進むべき時にきています。これから人類はどう生きるべきなのか? それを探るために、ホモ・サピエンスが、これまでたどってきた道のりを振り返り、その類まれなる進化の秘密を解き明かしてみましょう。

 

本誌の中の一説である。編集の主旨と考えられるが共感する。本誌は、〇笋燭舛呂匹海ら来たのか、から歓洋爐旅福とは、まで20のステップから構成されている。本誌はホモ・サピエンスが残った理由をその特殊な脳に置いている。ネアンデルタール人の脳は特異な分野に特化されているが、ホモ・サピエンスの脳は異なる領域のモジュールをつなぎ自在にネットワークする能力を獲得(「認知革命」)していたとするのである。

 

本誌で「認知革命」と称している概念は興味深い。ここから「ホモ・サピエンスは自分の生きる世界を自分の脳から創りだしてきた」というメッセージが出てくる。これこそがホモ・サピエンスの特徴だというわけだ。解剖学者・養老孟司氏の「人は脳が創りあげた環境の中に住んでいる」という言葉を思い出す。

 

じぶん流に解釈すれば、人間(ホモ・サピエンス)は古くからバーチャルな世界に生きていたということである。バーチャルな世界はコンピューター以前からあったのであり、このバーチャルな世界を構築しその中で生きることができるということがホモ・サピエンスの本質だと考えられるのである。本誌でも、言語、宗教、ヒエラルキー、貨幣経済、国家、帝国、数、法律、信用、資本、法人などを人間が創りだしたバーチャル・リアリティとしてあげている。

 

正に人間の生きている世界は自然と社会のコラボによるもので、数値化するのは困難であろうが、我々が思う以上にバーチャルな側面が大きいのである。これがIT化によりますます促進されるであろうことが予想される。また、このホモ・サピエンスの特質が幸福と不幸の始まりでもある。これは本誌のテーマでもあるようだ。

 

終わりのステップ20は「人類の幸福とは」がテーマであり、国連発表の「世界幸福度ランキング」(2017年度版)を紹介している。これによると日本は上位100の中で51位である。ヨーロッパ、アメリカ、カナダ、南米、オーストラリアが上位を占めアジア地域は今一の成績だ。

 

本誌の解説では、” この調査は、「一人当たり国内総生産」「社会的支援」「健康寿命」「人生選択の自由」「寛大さ」「政府や企業の健全度」の6項目についての評価に、それ以外の要素を数値化して加え、各国の幸福度を表したもの ” となっていたのだが、ちょっと違和感を覚えた。

 

ネットで調べてみると、ウィキペディアでは、” この調査における幸福度とは、自分の幸福度が0から10のどの段階にあるかを答える世論調査によって得られた数値の平均値であり、主観的な値である(データはギャラップ社によるもの)。報告においては、この幸福度を、GDPや健康寿命を含む6つの説明変数を用いて回帰分析し、各説明変数の寄与を求めて分析している ” とあった。

 

本誌の解説では6項目の客観的なデータを基に算出したと読めるのだが、ウィキペディアの解説ではアンケートの主観的なデータが基になっていると説明されている。おそらく、ウィキペディアの方が正しいのだと思う。これは編集者の意図ではなく錯誤だと推測するが、意図的にやることができる事案でもあることも念頭に入れておく必要があるだろう。

 

解説に錯誤があるとは言え、日本人が全体として幸福感が希薄であるという事実は否定できない。本誌では、自殺率、孤独感、うつ病などのデータを参照にあげているが、学術的な因果関係にまでは触れていない。本誌は、いろんな学説、データなどから編纂されたものだ。一篇の物語としての面白さは充分評価できるが、その編纂作業の中で錯誤に陥る危険率の高さをも改めて認識した。

 

 

それにしても、上の幸福度ランキング別に色分けされた地図は何を意味するのだろうか。これは地域、国だけの問題なのか、或いはホモ・サピエンスという種が抱える秘密が現れた問題なのか。この四半世紀に向けて、人類の大きなテーマであることには間違いない。

 

関連投稿: 洞窟壁画を描いたクロマニヨン人 (2016/12/16)

敗戦の日に

  • 2017.08.15 Tuesday
  • 22:00

ある書で地政学(※)という思考法があることを知ったのは青年期だが、今はその著者も書名も憶えていない。今も似た状況にあるのかもしれないが、地政学は当時はより日本社会から遊離した思考法だった。これも先の敗戦がもたらした現象の一つであったかもしれない。しかし、これは戦前の社会ではより一般的なものであったろうと考えられる。

※地政学−地理的な環境が国家に与える政治的、軍事的、経済的な影響を、巨視的な視点で研究するもの (wikipedia

 

じぶんが定年を迎えようとする頃から、世界的に自然/社会が変動期に入ったような印象に捕らわれてきた。定年から十年を経て、現に様々な現象が惹起されるのが見うけられる。特に国際情勢は西も東も緊迫しており、若い頃はじぶんの老後がこんな国際情勢になるとは予想もしなかった。より安定した国際情勢を期待していたのである。

 

じぶんは敗戦から二年後の1947年生まれで、今思えば少年期の世間にはまだ敗戦の空気がうっすらと残っていた気がする。学校の教師はほとんど左派の色合いが濃かったように思う。厭戦気分が強く、特に自衛隊に対する感情は否定的なものだっと思う。そんな中、少年期のじぶんは軍艦、軍用機のメカに対する興味から第二次大戦に興味を持ち始めていった。

 

その為、太平洋戦争域を表す下図のイメージは少年の頭に入っていた。勿論、太平洋戦争の歴史的意味などはほとんど理解していなかった。ほとんどゲーム感覚だったように思う。

 

しかし、じぶんも太平洋戦争時の軍事に対する関心を表に出すことはしなかった。何となくそれはタブーという、そんな空気があったのである。そんな社会状況の中、この国の大人たちもあの大戦を反省(悔やむことではない)することを怠った。

 

太平洋戦争史を読んで、日本が海洋国家であることは少年の頭でも何となく理解できた。連合艦隊はその象徴だったのである。最初に空母を核にした機動部隊を稼働させたのは大戦期の日本だった。

 

じぶんはこんな少年期をおくったので、戦後の日本を表す下図のイメージも普通に認識していた。しかし、今、このイメージすらこの国の多くの人々に欠けているのではないかと危惧している。

 

じぶんの少年期、日本の仮想敵国?はソビエトだった。少年の頭の中には、この国の防衛には広大な太平洋海域を活用した防衛構想が必要であるとの妄想があった。日本列島内の自衛隊基地もさることながら、太平洋海域の島々と艦船を利用した防衛システムを構築し、大洋側から本土を防衛するという構想である。

 

このガキの構想にリアリティがあるかどうかではない。少年期にこの位の想念を持っていたということなのである。今は、大の大人ですら、少なからぬ人々が左図のイメージすら自らの頭に無いのではないかと思われる。

 

北のミサイルがグァム近海を狙っているとのプロパガンダ報道があるが、グァムは日本圏から見て遙か遠方の島ではないのである。

 

事は右派、左派の話ではない。現体制を全否定というアナーキーな人種は別として、多くの人々にとって取り敢えず現体制が出発点のはずである。好戦的、厭戦的な人々は右派にも左派にもいる。現体制を変革しようと活動している人々も現体制から生活の糧を得ている。勘違いをしてはいけない。

 

要するに、地政学とは「ご近所付き合い」を考えることだろう。ご近所には常識人もいれば困ったちゃんもいるのである。この現状に目をつぶっても何も変わらない。この敗戦の日に、地政学的思考法を我々一般市民の常識とするような社会的取組みが必要なのではないか、ということに思いを廻らせてみた。

AIなトピックス!!

  • 2017.08.08 Tuesday
  • 22:27

前回に続き今回もAIのはなし。前回は、半分マジ半分冗談の内容だったが、あの後、ネットで驚きのニュースに刮目した。Forbes_JAPANがソースなのだが、 人工知能が勝手に「独自の言語で話す」恐るべき時代の到来8/6(日) 11:30配信というものだ。 フェイスブックが開発したAI(人工知能)が人間には理解できない独自の言語で会話をはじめ、同社はこのプロジェクトを緊急停止させたというのである。

 

 7月下旬、フェイスブックのAI研究チーム(FAIR:Facebook AI Research Lab)はチャットボット同士が、人間の指示を受けずに会話を行っていることを突き止めた。この事実は人類の想像を上回る偉業とも言えるが、同時にAIが恐ろしいほどのポテンシャルを持っていることを示している。

 人工知能はまだ一般に広く認知されるレベルには普及していないが、近い将来、多くの人に恐怖を与える段階に達するだろう。人工知能研究の世界的権威として知られるレイ・カーツワイル(Ray Kurzweil)は数年前に、シンギュラリティ(singularity)に関する警告を発していた。(Forbes JAPAN)

 

この記事ではホーキング博士がAIの危険性を警告していることを紹介している。博士がそのような発言をしていることは前に何かで読んだことがある。全く個人的なものだが、じぶんは今はAI肯定の立場にいる。『2001年宇宙の旅』(1968年)のHAL9000の頃から、コンピューターの未来を心に描いてきた。

 

しかし、じぶんが本当にコンピューターを身近に感じることができたのは、三十代の初めにパソコン教室でコモドール社製のPCに触れ、後にNECのPC8001を手に入れてからである。映画でHALを見てから十年以上経っていて、今思えばそのPCは未だ計算機に毛が生えたぐらいの代物だったが、当時はとてもワクワク・ドキドキしたものだった。

参考:スティーブ・ジョブズ死す (2011/10/06)

 

唇を読むHAL9000のカメラ・アイ         NEC-PC8001とモニター

 

今回のForbesの記事だけでは詳細がわからない。プロジェクトを緊急停止したとあるが、本当にそれほどの重大な現象だったのか、あるいは錯誤だったのか。しかし、事実だったとすればちょっとゾッとするような話ではある。しかし、その割にはこの現象をフォローする記事がない。

 

ちょっと曖昧な記憶なのだが、1996年出版のミッチェエル・ワールドロップ著『複雑系』の中に、研究者が一人でPCの中に作製した人工生命(プログラム)を走らせるテストをしている時に、周囲に妙な気配を感じたとのレポートがあったと思う。単なるコンピューターのプログラムとは言え、ある種の電子的アルゴリズムは我ら生命体と何らかの類似性/関連性があるのだろうか。

 

どちらにしても、今やAIは我ら一般人の想像を超えた域に達している可能性があると考えるべきのようだ。じぶんも安直に好奇心だけでAIを見るのは止めにしなければならないだろう。そういうEra(時代)に入ったのだ。

 

一方で、中国のAI「お喋りロボット」が話題を振りまいている。中国のインターネット・サービス会社とアメリカのソフトウェア会社により共同開発された対話プログラムで、基本的にネットユーザーの声を学習していくタイプのAIらしい。このAIお喋りロボが、ネットユーザーのインプット(「共産党万歳!!」)に対し、アウトプット(「 こんなに腐敗して無能な政党なのに、それでも万歳なんて言えるの? 」)を返したという。

 

他にも当局が看過できないアウトプットをするまでに成長?してしまったらしい。検閲の厳しい彼の国でAIはどうやってこんなアウトプットが出来るようになったのかなど、国内外に話題を提供しているわけだ。しかし詳細は不明だが、これはフェイスブックのAIの問題とは次元が異なる事象に思える。

 

簡単にAIと一言で片付けられないテーマであり、まさにAIもピンキリということだ。くそみそ(糞味噌)という言い方がある。この年の前半で、このくそみその区別のつかない(つけない)議員先生、知識人が多いことが重々分かった。おそらく、このままでは、AIについても又くそみその議論がまかり通るような気がする。

AIとホンキイ・トンク

  • 2017.08.04 Friday
  • 15:32

この世紀はAI( artificial intelligence :人工知能)の世紀と謂わんばかりの勢いだが、AIに関する報道等を見聞きするうちにホンキイ・トンクという言葉を思い起こした。筒井康隆氏の短編集『ホンキイ・トンク』に収められた同じタイトルの作品名である。

 

そもそも、ホンキートンク(wikipedia)とはアメリカのカントリーミュージック等が演奏されていた場所(バー)を指していたが、後にある演奏形態(ragtime)の呼称になっていったようだ。その独特の演奏スタイルが生み出す印象からなのか、或いはよく調律されていない調子はずれのピアノが使われたという事実からきているものなのか、ホンキートンクにはこの調子っぱずれのピアノが不可欠な要素なのだ。

 

筒井康隆のホンキイ・トンクがこのホンキートンクから来ているのは間違いない。短編『ホンキイ・トンク』は、ある小国の女王が国の政策をコンピューター、しかもちょっと狂った(バグ?)コンピューター(「ホンキイ・トンク」)に任せる決断をするという物語である。そして、この「ホンキイ・トンク」が打ち出す突拍子もない政策が功を奏するという話である。

 

短編『ホンキイ・トンク』は1969年の作品で、前の年に小説「2001年宇宙の旅」がキューブリックによって映画化され、人工知能を搭載したコンピューターHAL9000が登場する。AIが少しづづ世間一般に知られるようになっていった時代である。

 

そのような時代を背景に、著者は筒井康隆流SF的観察眼でコンピューター「ホンキイ・トンク」を登場させるのである。人間に反逆したHAL9000と比べ、ガラクタと言われてもしょうがないほどの「ホンキイ・トンク」が社会で有効に機能する。著者一流の社会風刺とも、また、フリーなジャズ好きの著者のフリーな即興と取れなくもない。

 

そして今、AIはあの時代のSF世界から現代のリアル世界の存在へと進化しつつある。AIはまだまだ特定専門分野の枠内に留まるエキスパートシステム(wikipedia)が主流だが、チェス、碁、将棋の世界ではAIがプロを超える力を持ちつつある。その背景にはディープラーニング(wikipedia)という技法の進展がある。

 

そして、近頃は医療分野で画像診断の正解率がパーフェクトに近づいているとのニュースも流れている。近くの病院でレントゲン検査を受けた知人が肺ガンの可能性ありと診断され、紹介された大病院で幼稚な誤診であることが判明したという話を聞いた。こんな状況を考えると、画像診断は原則AIに任すというような制度の確立が急がれるのかもしれない。

 

社会面でも、AIは雇用の喪失を生むなどの懸念がなされている。しかし、もはや、AIはアートの分野をも含むあらゆる分野に入り込んでいくであろうことは否定できないように思われる。人間が車社会を受け入れてきたように、AI社会を前提に法、教育などを整備していくことが肝要となる。

 

上記はまるで評論家のコメントのようで面白みがないが、実は個人的にAIの導入先として推奨したい組織がある。それが行政機関である。ここで話は頭に戻る。先ずAIの能力を生かせるのは行政機関ではないかという発想があり、それが「ホンキイ・トンク」の思い起こしへと繋がったのである。

 

昨今の国会質疑、官僚・地方行政の不祥事などを見るにつけ、いっそAIを中心に据えたシステムにオマカセしては、という思いが沸き出してきてしまったのである。今や、筒井康隆がSF(妄想)した時代に比べれば、AIは使えるテクノロジーに進化した。ただ、これにより多くの議員、役人が職を失うことになるので抵抗も大きいことが想定されるのだが。

 

AIは民間にも入り込んでいくことは間違いないが、メガAIシステムの開発を目途に、一躍行政と民間が一体になってシステムの開発を目指してはどうか。行政は前例、コンプライアンスなどに重きが置かれるので業務のコンピューター化(アルゴリズム化)に向いていると思う。もっとも行政には大岡裁き的側面も必要になるかもしれないので、五大老ぐらいは残しておいた方がいいかもしれない。

 

それにしても、AIは認知科学そのものであると言えるような対象であり、齢七十のじぶんにも充分に刺激的である。晴耕雨読、悠々自適などの老後の生活を喩える表現があるが、じぶんにはほど遠く、むしろ余生もAIに頼るような生活になってしまうのだろうかなどと思いを巡らせる。

銀幕のスターは永遠か?

  • 2017.07.30 Sunday
  • 21:11

今週は、GyaOで無料の映画二本を観た。『AVIATOR』と『FLYBOYS』だ。簡単にヒコーキものに惹かれてしまったということだ。『AVIATOR』はリリースされた頃の記憶はあるのだが『FLYBOYS』は曖昧だ。どちらも事実を基にした作品ということで、やはり商業映画なのでロマンスを抜くことは出来ないにしても、個人的には全体の中に占める割合がもうちょっと少ないほうが良いのではと思ってしまう。何故って、現実はハードボイルドだど〜!!

 

 

映画に詳しくはないのだが、アカデミー賞に主演、助演の賞があるように、登場人物の人となりを表現するのが映画の大事な手法になっていると考える。銀幕のスターを活かすという営業上の理由があるのかもしれないが、しかし、じぶんの好みから言えば、時によるが、直接的な人物描写はある範囲に抑えた方が良いのではと思っている。そういう意味では、アニメの作風の方がじぶんの好みかもしれない。

 

事実を基にとは言え、ぶっちゃけ数年分を二時間程度で表現するわけだからドラマティックにならざるを得ない。しかし、それで物語が事実と大きく乖離したものになるとは言えない。一方で、じぶんは事実(真実)というものが存在するのかどうかさえ妖しいと思っている。あるとしたら、それは ” 神のみぞ知る ” ということなのだと考える。それはもう宗教の世界である。

 

同じテーマで別の制作スタッフが映画を作ったとして、全く異なるテイストの作品になる可能性がある。そこでどっちが真実に近いかなどと論じてみても意味がないだろう。特に人物の内面描写となれば、それは事実というより、もうアートだ。よって、事実に基づく映画では、登場人物の直接的な内面描写は抑えめにして、むしろ絵画的な表現を多くした方がいいのではとじぶんは思う。

 

ヒコーキという道具が戦争に利用されていく時代背景、技術的な葛藤、操縦士の心理などの描写をメインにして、その中から登場人物の人となりが醸し出されるような作風が良いと思うのである。ヒーローよりもヒコーキを主役に。と言っても、これは好みが関わってくるので議論には向かないテーマだ。

 

議論に向かないと言えば、現国会が熱中している学園騒動も議論には向かないのではないか。政策に関わった政治家、官僚等の内面を議論しようとしているようで、それは国会の議論のテーマには向かないと思う。殺人を妄想しながら現実に普通の生活をしている人物と、妄想は無いのだがふとした事から殺人を犯してしまった人物がいた場合、社会として後者の責任を問うというのが取り敢えず現行のルールである。

 

公的な政策に関しても、公式の手順に沿っているか、公式記録に矛盾があるか否かしか問えないのではないか。関係者の内面にまで入っていくと、それはドラマ(アート)もしくは宗教の世界に立ち入ってしまうことになる。そういうことは映画に任せておけばいいということだ。政界に銀幕スターは要らない。

 

閑話休題。

 

それにしても、何故に、特に実写版映画の中でこうも男女の性愛描写が強調されるのだろうか。人間の三大欲求として「食欲」「睡眠欲」「性欲」があげられるが、映画の中では「性欲」(性愛)が別格な存在として捉えられているようだ。これは心理学上のテーマなのかもしれないが、LGBTなど性が複雑化する現社会においては、もはや安易な男女性愛描写は要検討の命題になっているのではないだろうか(?)。

無限(夢幻)のはなし

  • 2017.07.22 Saturday
  • 14:51

現代の肖像 森田真生 eAERA Kindle版

 

独立研究者と名乗る一人の若者がいることを知った。昨年、彼の著書『数学する身体』を読んで、その若者の生き方に驚愕した。年老いて、夜寝てから2,3時間で目が醒めてしまうことがある。そんなとき『数学する身体』を数ページ読むことをやってみた。一般に小難しい印象のタイトルの本だが、これが不思議に合うのである。妙に落ち着く。

 

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こんなことで気になる若者だったのだが、アマゾンでこの記事を見つけた。2012年10月1日号「AERA」に掲載された短い記事なのだが、実に愉しい。

 

 不思議なことに、数直線から適当に数を一つ選んだとき、それが計算可能数である確率は0ということが証明できます。(森田)

 

計算可能数というのは何かしらの計算手続きに置き換えられる数のこと。整数や分数は無論のこと、数学に出てくる数のほとんどは計算可能数であるという。一方、どんな計算手続きにも置き換えられない数があってこれを計算不可能数という。

 

しかし、研究者の上記の言葉によれば、数直線上のある数を指定?したとき、その数が計算可能数である確率が0という訳である。数学で扱う数のほとんどが計算可能数であると言いながら、舌の根の乾かぬうちに、計算可能数を選べる確率は0であると言う。

 

この話はカントールの「集合論」から来てるらしい。数直線上の計算可能数は可算無限個しか存在せず、さらに無限の中では一番小さい無限であるとのこと。一方、計算不可能数は非可算無限個も存在し、数直線全体からすれば計算可能数はないに等しいのだという。しかし、不思議なことに現実に手に取れるのは計算可能数ばかりである。無限空間の話は本当に面白い。ビックリ、ワクワクである。

 

 僕はこの世界もそうではないかと思うんです。僕らに見えているもの、意味がわかるもの、実態を持っているものって無数にあるように見えるんだけれど、それらの背後に一切アクセスできないものがあって、それらが世界を支えているのではないか。小学校で習う数直線という素朴な線ですら、そんな深遠なメッセージを伝えてくれる・・・。(森田)

 

もしかしたら、自然、社会という実世界も、数学という抽象の世界と同様に計算不可能数で埋め尽くされているのではないか。宇宙のダークマター、ダークエネルギーすら未確認ではあるが計算可能数の範疇であると想像すると、その背景には一体どんな無限(夢幻)の世界あるのかと気が遠くなる。

 

しかし何故か、このような意識はじぶんを力づけてくれる感覚を伴う。さらに、科学も宗教も関係者が思うほどには達しておらず、まだまだなんだなという認識を覚える。

 

 ですよね! 計算不可能数は、その数の存在そのものが意味となっていて、他のいかなる意味にも回収されない。そこが素晴らしいんです! たとえば映画でも『感動物語』とか圧縮した意味に回収されちゃうじゃないですか。だったら見に行かなくてもいい。どんな意味にも回収されないからこそ、その存在の全体が意味になる。数直線上にその数全体でしか意味を表すことができない数がほぼ100%というのは、なんか勇気づけられるな! 僕の人生も簡単な意味に回収されるなら、生きなくていいわけですよ。意味に回収できないからこそ、人は実際に生きてみるしかないわけです・・・。(森田)

 

関連投稿: 新しい数学の見方 (2016/10/16)

戦火の飛行家_サン=テグジュペリ

  • 2017.07.17 Monday
  • 21:10

サン=テグジュペリ著『戦う操縦士』(新潮社)

 

先に読んだ『夜間飛行』『人間の土地』と同様に本書も堀口大學の訳によるものだ。前の投稿でも書いたのだが、文学作品に不慣れなじぶんにとって堀口大學(1892-1981)の訳は難解な部分が多い。しかし、これはじぶんの素養の無さが原因なので如何ともし難い。今は、難解さはそのままに受け入れておくしかないと考えている。

 

サン=テグジュペリの作品は自分の飛行家としての体験に基づく作品が多い。著者も語っているように、農夫が鍬で土地を耕すように、飛行家は飛行機を使って自己(人生)を耕す。もっとも、これもある限られた時代の限られた者だけに付された特典?だったのかもしれないのだが。

 

本書『戦う操縦士』は、先の大戦でドイツがフランスに侵攻したときに、偵察飛行部隊二の三三飛行隊に所属していたサン=テグジュペリ陸軍大尉が自らの体験を基に記した実戦記であり、訳者の言葉を借りれば、フランス軍の全面的崩壊に至るまでの艱苦の戦闘体験から得たモラルの文学的結実である。

 

これも訳者の解説によるものだが、サン=テグジュペリは飛行家という職業を通じて大自然と接触し、人間の本然の発見に努める。しかしこの本然という訳語に親しみがない。”もとのままの姿” というような意味のようなのだが、本性とは意味合いが異なる気がする。より哲学的な意義を持つ語ではないかと思う。そして、このサン=テグジュペリの姿勢は ”戦闘の日々” にも不変なのである。このことが『戦う操縦士』を戦記から文学作品にまで昇華させた要因であろうと思われる。

 

しかし本書は戦記としても貴重で、フランス敗戦の最中、村を捨て避難民の行列に加わる住民の様子などが詳細に描かれている。日本人が同様の体験をしたのは、沖縄と敗戦後の大陸の住人たちかもしれない。サン=テグジュペリが遺した敗戦の記には価値がある。コミュニティ、個人共に敗北には意義がある、彼はそんなことを語りたかったのではないだろうか。

 

ある日、操縦士は必至覚悟の偵察に飛び立つ。高度1万メートルでの観測士官、射手との普通だが不思議な言葉のやり取り、低酸素状態で凍り付いて固着した方向舵と格闘する、そして高度700メートル、対空砲火の凄まじいアラス上空で操縦士の脳内を多様な想いが駆け巡る。併せてじぶん中では、大戦初期の欧州で既に高度1万メートルの偵察飛行が行われていたのか?などと、知識の曖昧さに気持ちが揺れる。

 

サン=テグジュペリは人生を戦争になぞらえているように思えてならない。彼にとって人間の本然、国の本然、コミュニティの本然というものが重要で、人生、戦争の勝敗ではない。そこから死を恐れない、死を厭わないという生き様が現れてくる。日本の武士道と相通じるものがあるのかもしれないが、どちらにしても、今を生きる我々一般人とは別種の人間であるようにさえ思える。

 

しかし、著者の作品が永く人々に親しまれ、愛され続けていることを考えると、あの頃から現代に至るまで、少なからぬ人々がサン=テグジュペリという飛行家兼文人に共感を覚えているということの証左ではないだろうか。しかも、このことで、ある種の安堵感を得ているじぶんを見る。

 

現世の個人偏重、経済偏重のあり方は強い現実感に支えられている。しかし一昔前に、これらと一線を画す人生観があったことを知ることは、我々にとって大事なことではないかと思う。直面する様々な個人的及び社会的課題/問題と対峙する時、これが解決の手がかりになるのではないかと期待するからである。

 


 

戦う操縦士(kindle版)

発行 1956年11月新潮社 (amazon)

著者 サン=テグジュペリ

訳  堀口大學

 

 

 

 

 

 

 

 

橋下徹という人

  • 2017.07.12 Wednesday
  • 11:15

東京都議選の余波まだしばらく続きそうだ。ネットで橋下徹氏の東京都議選結果に関するコメント?を聞く機会があった。しかし、じぶんの橋下徹という人物についてのイメージはタレント活動をしていた頃のままで、政治家になってからの橋下氏についてはマスメディアが報道すること以上のことは知らない。

 

よって、彼の政治的信条などについてもほとんど無知である。大阪都構想についてもその詳細、そしてその真髄を知らない。こんな状況で、ネットで視聴した橋下氏の都議選に関するコメントにはちょっと驚いた。要約すると、「都民ファースト」の躍進、その結果を導いた?民進党の森友、加計の追求を評価し、現政権の体制を批判しているのである。

 

じぶんの政治的案件に関する認識は低い。本気になってその案件について調べたり、考えたりすることが無かったからである。そういう意味では多くの日本の一般的人々と同程度?であろうと考えている。先頃、選挙の専門家と言われる人が、投票は政策ではなく環境(印象、空気、流れなど)によって決定されると断言していた。

 

身も蓋もないと言ってしまえばその通りだが、これが現実なのだろう。問題は有権者にほとんどその自覚が無いということではないか。ただ、普通の生活者の立場から考えれば、これもやむを得ないことと思われる。案件を精査しようにも、そんな時間の余裕も気力もない。

 

しかしながら、このような状況に対して危機感と、焦燥感を感じている人々もまた少なくないのではないだろうか。じぶんもその一人だ。そんな中で橋下徹氏のコメントは、初めは驚きだったが、また別の感覚をも呼び覚ました。

 

当番組で橋下氏はコメンテーター的役割を担っていると思われるのだが、都議選に関するコメントについては、氏の発言はコメントには聞こえなかった。端的に言えばアジ(アジテーション)に聞こえたのである。そもそも弁護士であるということと関連あるのかどうかは分からないが、今の橋下氏は安易にコメントなどしない人物に思える。

 

彼にとって発言(言葉)はツール、あるいはウェポンなのだと思う。こういう視点で見ると、彼のこの発言も腑に落ちる。具体的な企ては分からないが、彼の脳内には大阪府知事を目指した頃からの信念に基づく社会改革構想があるのだろう。それは大阪地域のみならず、日本の全地域が対象なのかもしれない。

 

今、彼が心底「都民ファースト」、民進党を評価しているのかどうかは疑問だ。しかし、今回の都議選で譲出された空気は、彼にとって好ましいものなのだろう。彼の発言はこの状況をより進展させるために用いられる。メディア的解説など、はなから関心がないのだ。依然として不可解な人物に変わりはないが、今回、じぶんなりにラフではあるが、その人物像をスケッチできたかなと感じている。

絵本のはなし

  • 2017.07.06 Thursday
  • 11:11

絵本というものに注意が向くようになったのは十五年以上前からだろうか。何かで柳田邦夫氏の ”絵本のすすめ” のような記事を読んだことがキッカケだったかもしれない。しかし注意が向いたと言っても、何ら行動は起きなかった。書店で絵本コーナーを回るわけでもなく、ネットで覗いてみることもしなかった。ただ当時から、人の認知活動は言葉(文字)によるものだけではないということに関心が向き始めていたように思う。

 

定年後、東京に出かけると、時間が許せば日比谷の書店「丸善」に立ち寄ることが多くなった。地方の書店には少ない洋書コーナーとか、絵本コーナーなどを覗いて回る。コミック本を読むようになったのもこの頃からである。今思えば、認知 ≧ 理解 の気付きではなかったか。

 

理解というと、やはり言葉(言語)によるものという印象が強い。ただ、人の{脳}を考えると、これは進化過程に関係があるのかもしれないが、言葉(言語)偏重のシステムであることは否定できない。人は言葉以外の情報(音楽、絵画等)に接しても何とか言語化しようとする。理解しようとするのである。このことの善し悪しはまた別の問題なのだが。

 

しかし、そもそも、全てを言語化 - 永遠の課題 - しようとすることに無理があるのではないか。これは{脳}に取り憑いた業(ごう)ではないかとさえ思ってしまう。こんな事への関心が、絵本とかコミック本に注目するようになった要因ではなかったかと考えている。絵本の中にはまったく文字の表記がないものもある。

 

 

日本には俳句という五・七・五の一七音を定型とする固有の短い詩がある。今、じぶんに俳句を読む(詠む)才能がないことを本当に残念に思う。少なくとも、俳句などの詩歌は理解する(できる)ものではないのではないか。世の中には専門家による俳句の解釈本があるが、これも悪まで方便によるものだろう。

 

数学など、言語体系のなかで特異な発達をみせた分野もあるが、今や言論空間において一般的言語である言葉は、口述においても記述においても深刻な問題に直面していると思わざるを得ない。コミュニケーション(相互理解)・ツールとしての機能を充分に果たせているとは思えないからである。

 

それは言葉の問題というより人、特に大人の身体({脳}を含む)側の問題ではないかと思うのである。そんな大人には絵本が役に立つ、そう思う。子どもだけのモノにしておくのはもったいない。中途半端に若いと、絵本を手に取るなどはちょっと恥ずかしいと感じたりするものだが、この歳になるとそんな気兼ねは消失する。年寄りの特典だ。

 

ご同輩には、心身のリセット、リフレッシュのために絵本を勧めたい。

Viva!! チョメチョメ・ファースト ??

  • 2017.07.03 Monday
  • 20:58

何やら「××ファースト」が流行っている。アメリカ大統領、そして我が東京都知事がスローガンにしてきた。昨日、東京都都議会選挙が行われ、都民ファーストが圧勝した。

 

 

都民もミーハーだな、というのが第一印象だった。個人的にはもっと与・野党が拮抗するような結果になるのではと思っていたので−それが東京のために良い−、正直驚いた。新聞などの見出しには一強政権に対する反発、加計問題などが災いしたような表現がされていたが、個人的にはチンプンカンプンな解説だ。

 

東京は特別な自治体とは言え、地方議会選挙に何で国政の問題がここまで影響?するのかが不可解だ。じぶんには、今国政で議論されていることと、今東京が抱えている課題とはほとんど無関係であるように思われる。メディアの意図か否かは別として、都民がメディアの印象操作?にまんまと乗っかってしまったという印象は否めない。東京の沖縄化を懸念する声もある。

 

じぶんは若いころ、どちらかと言えば、やや反体制的な視点を良しとする者だった。ところが、この所、体制側に立っていることが多くなったことに気づく。それは、いわゆる左派(リベラル)側の言動が理解できなくなったことに起因している。このことがじぶんの年齢に関連しているのかどうかは不明だが、もしじぶんが都民だったとして、今回の選挙で都民ファーストを外すのは間違いない。

 

ベストの譬えとも思えないが、与・野党の役割とは、自分が病気で入院している病院側(与党)と外部の医療関係者(野党)ではないだろうか。気が付いたら病院のベットの中、とりあえず現体制容認から始まる。そこが真の悪徳病院であることが判明した場合、急いで転院を図らなければいけないかもしれないが、平均的な医療施設?であれば状況を見ながら考えるというのが常識的な判断だろう。

 

この場合、外部の医療関係者(野党)のアドバイス(改革)が頼りになる。少なくとも、野党の意義は革命(破壊)ではないと考える。野党には名コーチの技量が求められるのではないだろうか。この意味で、現野党の言動には不安がのこるのである。今回、都民ファーストは野党から与党に立場を変えたことになるが、選んだ都民と共に、その責任は重大だろう。

 

東京都の容体は「要観察」が続く。

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