リカレント教育という制度のはなし

  • 2017.10.20 Friday
  • 17:28

当ブログのメインテーマは「学び直し」である。定年後の人生を考えた時に思いついた言葉である。じぶんの人生の繕いをするというのが個人的な目的なのだが、併せてこれは社会的な課題なのではないかということを当時から考えていた。しかも国家的な課題であろうと。

 

今回の衆議院選挙で自民党から「リカレント教育」という政策が提示された。簡単に言うと、生涯教育とか学び直しのことを表すようだが、本来はより明確な定義を持つ用語のようだ。

 

 義務教育または基礎教育の修了後,生涯にわたって教育と他の諸活動(労働,余暇など)を交互に行なう教育システム。スウェーデンの経済学者ゴスタ・レーンの提唱した概念で,1970年経済協力開発機構 OECDの教育政策会議で取り上げられ,研究が進められている。スウェーデンやフランスの有給教育制度,アメリカ合衆国のコミュニティ・スクール,日本の夜間制社会人大学院,放送大学などがその例である。青少年の社会参加を早め,過重な教育負担や教育内容の世代間較差を解消するなどの効果が期待される。しかし,生涯のどの段階にどのような教育を配置するか,労働などを中断して教育に参加する条件をどう確保するか,教育経費の増大にどう対応するかなど,具体化への課題は多い。

(ブリタニカ国際大百科事典)

 

じぶんはこの用語「リカレント教育」を知らなかった。しかも既に半世紀前に国際的に提唱されていたというのは驚きだ。ブリタニカの解説では日本の放送大学が例としてあがれているが、これにはちょっと違和感を覚える。放送大学については、国民に生涯教育の機会を与えたというよりも、国民に広く大学卒業資格取得の機会を提示したということではないかと思っている。

 

しかし、リカレント教育が提示するものはもっと社会活動、問題解決に即した教育システムではないかと思う。ブリタニカの解説文の中では、最後の ” 生涯のどの段階にどのような教育を配置するか,労働などを中断して教育に参加する条件をどう確保するか,教育経費の増大にどう対応するかなど,具体化への課題は多い ” という表現が本筋だと考える。じぶんが関心があるのもこちらの方だ。

 

特に日本は高齢化社会の最前線?にあるようなので、来る世界的な高齢化社会に関する問題解決に世界に先んじて辿り着くことが出来たとしたら、それは国際社会へのノーベル賞的貢献ではないかと思う。そして、じぶんはそのキーがリカレント教育と経済システムのデザイン力にあると考えている。

 

次の政権には是非この政策を実行してもらたいと思う。定年を機に思い描いていたことが実現に向かう兆しが出てきたことはとても嬉しいことである。そして、じぶんがあと十年若かったらと残念に思う気持ちもある。

 

関連投稿: 文科省が女性の「学び直し」拡充政策を発表! (2014/08/20)
      再び、学び直しについて (2012/11/21)

TVドラマを見るのが辛くなった

  • 2017.10.16 Monday
  • 14:59

物理的に地デジを見ることが出来なくなってからほぼ2年になる。しかし以前書いたように、ネットに繋がっているので映像の視聴には事欠かない。そして主な利用の仕方は音楽とニュース(英語)等になっている。さらにニュース(英語)については、英語という言語に不自由なのでほとんどBGV(※)のような状態になっている。そしてTVドラマを見るのが辛くなった。

※BGVバックグラウンドビデオ:BGMと同じようにインテリアの一つとして楽しむため、美しい音楽や映像で構成されたビデオディスクやVTR作品。

 

TVドラマ全般が対象なのだが、特に日本のモノがいけない。見慣れた芸能人(俳優・タレント)がそのまんまの顔でいろんな物語に出てくる。今、芸能人は自分の芸・専門のみならず、多種多様なバラエティ番組・雑誌等に現れるのでそれなりに印象づけがされている。その同一人物が同じ顔でまた色んなドラマに出てくるので困るのである。その意味で外国のモノの方がリスクは小さい。

 

仮に時代劇として、ある武将を演じるときに芸能人Aの顔そのまんまなのである。かつてはこんなことは殆ど気にならなかったのだが、今はえーっ、あんたあのドラマ、あのバラエティに出ていたひとだよね、と余計なイメージが邪魔をする。せめて歌舞伎役者ほど完璧にメイクして出てもらえればと思う。今のドラマの売りは作品より役者(芸能人)なのかもしれない。

 

それとストーリー、もう出尽くしたのではと思ってしまう。もちろん、同じテーマでも制作スタッフ、役者が異なれば違う作品になるであろうことは想像できる。まして、この世界のテーマの多様性は限りがないはずだとも思うのだが。しかし習慣として、ドラマや映画はおよそ30分〜120分ほど画面の前に座していることを強いられる。自縛なのかもしれないが、またあの見慣れた(見飽きた?)演技を見なければという束縛に耐えることが苦痛になってきているのである。

 

続きを待ちかねながら見た最後のTVドラマは二年前の『下町ロケット』だ。当時の投稿もあるが、本当にじぶんが何に惹きつけられたのかは不明だ。(下町ロケットを考える (2015/11/07))

 

 

さて、TVドラマを見るのが辛くなった要因はタレント役者とテーマのマンネリ化ではと自己分析してみたのだが、さて、これが本当は加齢に関係があるではないかと考えてしまう。こうなると自分自身のことなのだが何とも言いようがない。なにせ人生で老齢体験は初めてなので。

 

ただ、今、IT社会の発展に伴って映像・音声の通信機能が進歩したために、TVドラマ・映画などをネットを通して見ることができるようになった。おかげで、放送では不可能だったドラマ・映画の早送り・巻き戻し・一時停止が簡単にできるようになり、この機能を多用するようになった。

 

しかし、このことは本・雑誌を読むときや、各種図書閲覧ではごく普通に行っていることである。ただTVドラマ・映画だけは、個人的なことかもしれないが、早送り・巻き戻しすることが出来なかった。考えてみれば特別扱いしてきたわけである。しかし今、TV放送(地デジ)もそうだが、その自縛から解放されつつある。

 

実際はこれが加齢(脳の老化)によるものだとしても、それもまた良しと考えたい。

 

脳の健康という考え方?!

 

政局は踊る

  • 2017.10.12 Thursday
  • 19:55

近年、国の政局のイベント化現象として思い起こされるのは2005年の小泉郵政改革選挙、2009年民主党政権交代選挙である。そして、今回2017年衆議院選挙もイベント化現象を誘発しそうな雰囲気が濃厚である。その誘因は小池百合子党首の「希望の党」だが、その新党結党に伴う野党再編?の動きはトンデモナイことになっている。

 

一方、自民党も選挙で最優先に主張するところが若干曖昧だ。選挙戦がスタートしたが、小池百合子党首が不出馬ということで、野党側もその勢いが削がれたかたちとなっている。

 

2005年小泉郵政改革選挙では、じぶんもすっかり小泉劇場のミーハーな観客となりそのままに選挙に行ってしまった。2009年民主党政権交代選挙では、民主党に一票を投じたがムードに流されてということではなかった。民主党結党早々から民主党を支持していたからである。それは反自民ということではなく、政権を担える政党が自民党の他にあった方がよいという思いからだった。

 

そのため、2012年に民主党が下野してからも民主党を支持し続ける思いがあった。しかし2014年の衆院選挙で考えがぐらつき始め、小選挙区では民主党に入れたが、比例では民主党を外した。そして2016年の参議院選挙では民主党(現民進党)を完全に外した。

 

評論家の言うとおり、選挙は政策で選択するのが正道なのかもしれないが、今回もほとんどその気になれない。党、立候補者の主張の意義と確信が得られないからである。立候補者たちでさえ自分の主張を本当に理解しているかどうかを疑う。普段の言動、論考、議論が重要である。俄か仕立てではどうにもならないだろう。

 

じぶんは取りあえず現政権の続投と健全な?野党の誕生を願っている。そのためにどのような投票を行うべきか、投票日までに考えたいと思っている。’05、’09年の選挙の時はハイな気分だった。しかし、今回の選挙の気分はローである。ミーハーに面白がる気分にはなれない。

 

選挙の結果がどうであろうと、それで日本国民の民度が問われることになるのだろう。厳粛に受けとめるしかない。

 

それにしても、日の丸が「右」のイメージになってしまうのには戸惑う。

団塊の真実?

  • 2017.10.04 Wednesday
  • 10:55

先日、古希を祝って10年ぶりに小中学校時代の同窓会があり、一泊で那須高原に行ってきた。我ら団塊とは言いながら、同学年僅か五十七名の超ミニの団塊世代である。関東、東北から健在者52名の内21名が集った。幹事の説明のごとく、小さな同窓会とは言え2,3名を除きほとんどの同窓生に連絡が取れる状況にあるというのは本当に稀少なことかもしれない。

 

地デジを見なくなった今、じぶんが利用しているのはインターネットメディアである。地デジのメジャーなメディアと異なり、ネットのマイナーなメディアの情報は玉石混交かもしれないが、メジャー・メディアのバイアスのかかった情報を修正するには格好の存在である。

 

じぶんの場合、今はほとんどネット情報で暮しているので、今度は反対側のバイアスが懸念されるが、TVメディアにどっぷりの年数の方が圧倒的に長かったので、現在のネットに偏った情報生活は丁度良いと考えている。そして、じぶんがネットに危機感を感じるのは、おそらくメジャー・メディアが壊滅したときだと思うが、これは想像しにくい。

 

さて、このネット・メディアの中でご活躍の一人に百田直樹氏(wikipedia)がいる。暴言?が話題になることが多い人物である。個人的に百田氏の主張に共感するところは少なくない。しかしながら、時折、百田氏が唱える ”団塊の世代批判” には閉口する。

 

1947年〜1949年に生まれたいわゆる団塊の世代は約800万人、2005年の統計で現存の人口は約678万人もいる。2003年〜2005年の出生が約330万人というのだからその多さが際立つ。これだけ大量の人々を、百田氏は十把一絡げに批判するのである。

 

しかし、これはやはりちょっと乱暴である。団塊の世代も多様な層で構成されているのが現実だと思う。下の世代の人から ”団塊の世代批判” を聞くこともあるが、そんな時に感じるのは「まるで中韓の反日運動だな」ということである。殆どはその実態を知ることもなくムードで言動に走ってしまう。じぶんには反日運動と団塊批判は同根の現象に見える。

 

さらに、今、世間には多様な言論が飛び交っているが、 インドの寓話「群盲評象」(wikipedia)の状況に見えてならない。この寓話では互いに異なる視点(立場)を理解するというハッピーな物語で終わるらしいが、さて現世界の混乱した言論状況はどんな結末を迎えるのだろうか。

 

そして、誰か、団塊の世代の真実(が在るとして)をバランス良く整理してくれる方はいないものだろうか。団塊の世代の一人として切に願う。

 

言語ゲーム_選挙

  • 2017.09.28 Thursday
  • 20:53
衆院は28日午後の本会議で解散された。政府は解散後の臨時閣議で、衆院選を「10月10日公示−22日投開票」とする日程を決める。
衆院は28日午後の本会議で解散された。政府は解散後の臨時閣議で、衆院選を「10月10日公示−22日投開票」とする日程を決める。
衆院は28日午後の本会議で解散された。政府は解散後の臨時閣議で、衆院選を「10月10日公示−22日投開票」とする日程を決める。

衆院は本日28日午後の本会議で解散となった。今回は新党「希望の党」が台風の目となりそう?な様子もあるが、何やら未発達の旋風のままに終わってしまいそうな気配もする。一方、政府から解散の意向が示されたときに始まったメディア、議員等の報道・言動に「言語ゲーム」という言葉が思い浮かんだ。

 

「言語ゲーム」とは、もともと哲学者・ヴィトゲンシュタインが提唱した概念だ。が、今回じぶんの脳裏に映ったのは、そこまで哲学的なものではなく、言いたい放題の様々な舌戦の印象から生まれたイメージである。しかし、ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の概念と全く無関係ということではないような気がしている。

 

言語の中で、数学のような論理構造を持つものは別格としても、我々が通常に使用する言葉は曖昧さこそ本質ではないかとさえ思える。しかしながら、使う側の人間からすれば、自分の主張には明確な論理の筋が通っていると信じ語っているように見える。しかし、その多くは「風吹けばおけ屋が儲かる」式のロジックでしかない。

 

要は、その主張にどのような行動が伴うのか、或いは受け取る側にどのような行動を引き起こすことができるのかということであろう。そして、これを成すのは論理ではなく情動であるに違いないと思う。現に、最近の選挙結果を見れば、ほとんどムードに左右されているように思えてならない。

 

新党「希望の党」では、お騒がせ都知事が党首に就任した。さらに都知事を辞め自ら衆院選挙に立候補するのではとの噂もある。現都知事のこの一年の言動を見ていると「言語ゲーム」そのものという感じがする。「言語ゲーム_選挙」の名クリエーター&プレイヤーという称号を贈りたい。

 

ただ、「言語ゲーム_都政」は散々な結果だっというしかない。都民はこのことを冷静に判断すべきであろう。「言語ゲーム_衆院選」が始まろうとしている。否応なく我々もその中に取り込まれる。今回じぶんは、選挙の大義、争点、政策等から視点を外すことにした。さて、国民はどんな結果を創出することになるのだろうか。

 

健康診断の結果を待っているような心地である。

 

参照:言語ゲームって ? (2013/07/14)

核兵器が間近に

  • 2017.09.21 Thursday
  • 13:25

前回は「THE HUMAN BODY SHOP」をテーマに、近年急激に注目されてきているバイオテクノロジーの発展に伴う新しい医療技術の倫理問題について考えてみた。これは現代社会の抱えるクライシス(※)の一つと考えられる。そして今、もう一つのクライシスとしてあるのが核兵器である。ただ、こっちは72年も前の広島、長崎から始まったものだが、今、北朝鮮の核開発に伴い新たな展開を見せようとしている。

※クライシス_ 危機、重大な局面、運命の分かれ道、といった意味。

 

残念ながら、唯一の核被爆国の民の一人として、じぶんの核兵器に対する感度(感覚)は鈍い。他人のせいにしたくはないが、しかし、これは大方の日本国民の感覚ではないか。一部の良心的な人、一部の狂信的な人は日頃から核兵器に対して高い感度を維持し続けてきたのかもしれないが、大半の日本人は何か他人事のような気がしていないだろうか。

 

十数年前、SF作家・豊田有恒 著『いい加減にしろ 中国』を読んで、改めて隣国の中国が核兵器保有国であることを再認識したことを思い出す。じぶんの核兵器に対する感度はこんな程度だったわけで、しかも直ぐにまた日常生活にかまけて核兵器のことなどは意識の範疇から遠のいていった。

 

しかし、昨今、北朝鮮が金正恩体制になってから核兵器とミサイルの開発が急転、直近の9/3の水爆実験、9/15のICBM発射実験は共に成功したものと思われ、北朝鮮を取り巻く国々の思惑が混沌としてきている。そして、これに呼応したものか、この週明けに安倍首相は10月の衆議院解散の意向を打ち出した。

 

個人的な思惑、予想などはどうでもいいが、予想を超えた急転回である。じぶんは、核戦争を望む人間など、極一部の原理的思想に取り憑かれた者以外、右にも左にもいるわけがないと信じている。話し合いで決着することが最善であることは間違いない。しかし問題は、話し合える状況を作れるか否かということ、そしてうまい落とし処を創発しうるかということである。

 

かつてミュンヘン会談で、ヨーロッパ連合とドイツ(ナチス)は話し合いでケリが付くかに見えたが、その宥和政策が皮肉にも戦争への誘因となった。話し合うとしても、充分な知恵と運に恵まれるかどうかが成功のカギとなるだろう。平和を唱えていれば何とかなるというものでないことは確かだ。

 

日本の場合、非核三原則が問われることになる。もたず、つくらず、もちこませずの三原則だが、議論になるのは三つ目のもちこませずだろう。NATOの核シェアリングというモデルがあるという。しかし、この施策どころか、たよらず、ぎろんせずも付け加えて非核五原則を提唱する勢力が出てきそうな気がする。

 

核の問題は議論で解決できるような案件とも思えないが、その議論すら拒まれることを想像すると万事休す、如何ともしがたい状況しか見えてこない。仮に非核三原則(もしくは五原則)が、お題目としてではなく本当に力のある法則であれば、これを国の基本法に据えることもできようが、右も左もこれをもてあそび過ぎた。残念至極。

 

この度の衆議院解散を受け、また政府vs野党・メディア連合との対立になると思われるが、ぜひとも加計・森友と同じ不毛な遣り取りに終わらぬことを願うしかない。また、国民も一人ひとりがこれを機に核兵器のある現実を見つめ直してみることが肝心である。中には、核攻撃も甘んじて受けるべしなどと語る人物/グループの出現も予感するが、論外である。

 

関連投稿:困った隣人、中国 (2012/12/10)

 

THE HUMAN BODY SHOP

  • 2017.09.14 Thursday
  • 20:19

A・キンブレル 著/福岡伸一 訳『生命に部分はない』(講談社現代新書)

 

この夏のある日、書店で福岡伸一氏の翻訳本が目に留り、氏の翻訳本は未だ読んだことがなかったが、それから一月以上経ってから手に入れた。新書で584頁という分厚い本で、なお且つ文字も小さめということで、本当に読み応えのある本である。読み応えという意味では、量だけではなく質という側面から見ても重い書である。

 

初め目に留った時に購入を迷ったのは、その分厚さと翻訳本であるということであったと思う。3度目位に目にしたときに、チラ読みして、福岡伸一氏に多大な影響を与えた書であることが分かり購入した。本のタイトルは「生命に部分はない」だが、原題は「THE HUMAN BODY SHOP」である。

 

福岡伸一氏は ’95年に『ヒューマンボディショップ』と原題に則したタイトルの本を出版している。その後、原作の改訂があり、改めて翻訳・加筆をして新書版『生命に部分はない』として出版されることになった。タイトルを変えたのは、同じ講談社新書として出版された自らの前著『生物と無生物のあいだ』『世界は分けてもわからない』に倣い、且つこれらの著書に共通する福岡氏の理念に基づくものと思われる。

 

しかし、著者A・キンブレルの意向を考えれば原題『THE HUMAN BODY SHOP』(人間部品産業)の方が本書のタイトルとして分かりやすいかもしれない。実際に読み始めると、その内容の難解さ、奇怪さに唖然とする。主にアメリカ社会の中で起きたバイオテクノロジーと、それに関わるビジネス動向関連の膨大な事象が記されている。

 

まず素人には、バイオテクノロジーに関する生物学的な記述について行くのが困難である。併せて、法律家でもある著者A・キンブレルはバイオテクノロジーの発展に伴うビジネスのための特許取得に刮目し、本書では生物学的側面と法的側面が併行して語られているので、ますます読者の頭は混乱してくる。

 

しかし、ここが核心で、「THE HUMAN BODY SHOP(人間部品産業)」の問題を語るにはこの両面が不可欠だということである。臓器移植から不妊治療、さらに遺伝子操作へと、医療技術のビジネス化は止まることを知らない。本書を読んでこの現実の深刻さを初めて知った(認識した?)。現実は想像以上である。

 

著者A・キンブレルはこれらの現象を「THE HUMAN BODY SHOP(人間部品産業)」と呼んだ。本書にはこのトレンドの推奨派と反対派の人物、組織が描かれている。著者A・キンブレルと、翻訳者 福岡伸一は批判的立場にあり、このことに警鐘を鳴らす。

 

本書を読み始めた頃に、ネットで映画『アイランド』が目に留まり、物語が気になったのと無料だったので、途中早送りしながら視聴してみた。ゲゲッという感じだった。本書の内容にジャストミートだったのである。時代背景は2019年、微妙な時代設定だが、富裕層の医療のためにクローン人間を製造(?)するというビジネス物語(??)なのだが、とても後味の悪い映画だ。

 

wikipedia

 

2019年までに映画と同じ状況になるとは思えないが、もはやこの物語がSFとは言えない現況であることは認識しなければならないと思った。人類として、また個人としても、生命とは何か倫理とは何かを問われる時代に入ったということだ。

 

  • 臓器や組織の効率的な売買のために、胎児の生体解剖が行われている?
  • 凍結されたままの胚(受精卵)に、人権や遺産相続はあるのか?
  • ある調査で、「生まれる子供に肥満傾向があるとわかれば中絶したい」と答える人が11%
  • ヒトの遺伝子をもつように改良された「動物」に次々と特許が与えられる
  • 「背が高くなるように」と、毎日ヒト成長ホルモンを注射する少年

 

本書のオビに記載された見出しだが、多くの人はこれを読んで頭(心)がフリーズするのではないだろうか。じぶんもどう判断してよいのやら躊躇している。また、著者A・キンブレルは、このような社会状況を生み出した根源は十八世紀の思想家たち−ガリレオ、ニュートン、ケプラー、デカルト、ロック、アダム・スミス等−であると言う。

 

彼らによって新しい生命観、「生物体は精妙な機械でしかない」という考え方と自由市場主義が導入され、機械論と自由市場主義のドグマは現在の人間部品産業の双子の基本概念となったというのである。この主張に対しては、現時点でじぶんは違和感を感じている。「では、彼らは存在しない方がよかったのか」という問いに対して答えることができないからである。

 

本書の中でじぶんが最もショッキングだったのは「優生学」のはなしである。十九世紀末にチャールズ・ダーウィンのいとこであるフランシス・ゴルトンによって提唱されたこと、ナチスの優生学的施策についての知識はあった。しかし二十世紀前半のアメリカで、実際にいわゆる不適格者に対する不妊化手術に関する法案が施行されていたことを初めて知った。

 

第二次大戦終了とともに、ナチスのユダヤ人大量虐殺が優生学的施策に決定的なダメージを与えた。しかし今、再び優生学が見直されているのだという。今回は、政治的背景や民族差別に根ざしたものではなく、心身の病気や異常の遺伝的解明という科学に基づいたものと言われてはいるのだが。

 

しかし、著者A・キンブレルは語る。

 

 しかし、その手段が中絶であれ、生殖細胞遺伝子操作であれ、この新しい優生学の流れは必ず、実際の重篤な病気とは関係しない各種の「悪い」遺伝子を排除する方向へ向かうことになるだろう。たとえば、各種の情緒障害とか、行動異常に関係する遺伝子を解明する研究が目下急速に進められている。これらの研究がやっかいな生物学的決定論に再び火をつけることになってきた。すなわち、人間の行動は環境要因ではなく、遺伝的要因によって決定されるという考え方である。

 

じぶんは、個々人の遺伝的影響は一般に考える以上に大きいのではないかと思っている。しかし、その遺伝的要因が現象(各症状等)と簡単な因果関係にあるという感覚はない。そこは、本書の翻訳者で分子生物学者でもある福岡伸一氏の理念に共感する。さらに、A・キンブレルの上記メッセージが投げかける懸念にも共鳴するのである。

 

A・キンブレルは、人間部品産業の考え方から脱却するには、技術至上主義と市場主義によって体を侵食するあり方に対抗する志向改革が必要だとする。具体的には、健康志向、自然分娩、自然食志向、環境運動などを推奨する。じぶんの頭の中では、「THE HUMAN BODY SHOP(人間部品産業)」という社会現象とA・キンブレルの主張する志向改革との間に、まだ強い相関が感じられない。しかし、何らかの関連は否定できないのではないかという思いはある。

 

さりながら、A・キンブレルが最終節であげている「人間部品産業からの脱却」のための十三の施策、そして「からだの無償供与の原則」を確立するための五つの施策は充分検討に値する提案である。

 

このブログ記事を投稿するにあたっては、どのカテゴリーにするか迷っていたのだが、最終的にカテゴリー「社会・経済のはなし」に決めた。このテーマの最深部にあるものは、やはり経済(「市場原理」)だと思ったからである。本書の中に、スミス以後、人間はホモ・サピエンスならぬホモ・コンサプター(消費する動物)になった、という記述がある。

 

アダム・スミス以後に急変したのか否かは別としても、現代の人間社会の中に占める経済(「市場原理」)の役割の大きさは半端ではない。ほとんど全て?かと思ってしまうほどである。ちょっと立ち止まって考え直してみる時なのかもしれない。まだ間に合うことを願掛けて。

 

関連投稿: 再び ”動的平衡” について (2012/06/29)

 


 

生命に部分はない

2017年6月発行(講談社現代新書:amazon

 

著者 A・キンブレル

弁護士、市民運動家、執筆者として、およそ四半世紀にわたり活躍中。1997年には食品安全センターを創設、事務局長を務める。環境保護、持続可能な農業のあり方を訴えている。

 

訳者 福岡伸一

生物学者。1959年、東京都生まれ。京都大学卒業。ハーバード大学医学部博士研究員、京都大学助教授などを経て、青山学院大学教授、ロックフェラー大学客員教授。『生物と無生物のあいだ』『世界は分けてもわからない』、『新版 動的平衡』、『動的平衡2』『動的平衡3』など著書多数。

 

 

 


 

「参考」

 

人間部品産業から脱却のための十三の施策

 

  • 死の定義を脳の高次機能の停止にまで拡張しないこと。
  • 死体もしくはネオモート(生命維持装置につながれた脳死患者)を臓器保存容器としないこと。
  • 死体に対し尊厳ある取り扱いを行い丁重に埋葬すること。
  • 臓器移植研究目的のため、人為的に中絶した胎児を用いることの禁止、この操作に関する倫理問題、法律問題、特に承諾の取り方、胎児を生きたまま摘出すること、臓器供与の強要、胎児確保を目的とした中絶方法の変更、胎児供与に対する秘密報酬などの諸問題は解決不可能であるように思われる。さらに、いかに目的が救命のみであっても、その目的のためだけに胎児を手段として利用することの禁止。
  • 「優秀な」精子、卵子の優生学的使用の禁止。
  • 胚に対する実験操作の禁止。凍結胚にはできるだけ生まれてくるチャンスが与えられるように努力がなされること。
  • 胎児の遺伝子診断(羊水検査、CVS、移植以前における胚の遺伝子診断)は生命の危険がある病気の検出のみに限定して使用されること。出生前の診断が性別、体重、身長その他病気でない形質の判別に使用されることの禁止。
  • 労働者をモニターする目的の遺伝子診断の禁止。雇用、生命保険、医療保険の適用に際し、遺伝子診断の結果に基づく個人の差別が行われないようにすること。
  • 遺伝子工学によって製造された薬物が、差別の対象となりうる人間の形質(身長、肌の色など)を変更するために使用されないようにすること。
  • 遺伝子治療は生命の危険がある病気の治療に限ること。美容目的、身体的特徴の増進目的のために遺伝子操作が用いられないようにすること。
  • 動物のクローン化、生殖細胞操作、およびヒト遺伝子の動物への導入に関してモラトリアムを設けること。この間、徹底した討議を行い、動物の遺伝子操作に関する倫理的問題、環境に与える影響を検討すること。
  • 当面のあいだ、生殖細胞に対する遺伝子治療を禁止すること。どの遺伝子が良くどの遺伝子が悪いのか私たちに判断する資格はない。
  • ヒトのクローン化の全面禁止。

 

無償供与を確立するための五つの施策

 

  • 輸血用の献血を引き続き無償で行う体制を堅持すること。製薬目的、研究目的の商業的血液売買を停止すること。
  • アメリカおよび各国における移植用臓器の売買禁止を強力に支持し、売買禁止の原則を研究用臓器にも適用すること。
  • 胎児組織売買の禁止を強力に支持し、これが順守されるよう監視を怠らないこと。
  • 精子、卵子、胚の売買禁止を実行に移すこと。代理母契約制度全世界規模で停止し、契約斡旋業者に対し厳罰で臨むこと。
  • 遺伝子操作された動物、人間の細胞、遺伝子、胚、臓器など、からだの一部を含むすべての生命形態の特許化禁止を全世界規模で進めること。

 

車社会_アメリカという広大な国

  • 2017.09.09 Saturday
  • 21:06

今、わが家は地デジが映らない。代わりに、わが家のTVに流れているものはアマゾンのFire_TV_Stickからのアメリカのネット映像だ。話の内容はほどんど理解できないが、映像情報を併せると多少は様子が分かってくる。この8月後半のアメリカの出来事が興味深かった。

 

まず皆既日食、8/21にアメリカで皆既日食が見られた。それに先だって見学、観測のための民族大移動?の様子が放映されていたが、改めて車社会アメリカを彷彿とさせる情景だった。

 

観測ポイントに向かう車の大移動・渋滞の様子は日本の連休渋滞以上のものを想わせる。また、ガソリン、ホテル不足が問題となっていることも報道された。そして、じぶんはこのアメリカ人の行動をとても新鮮に感じた。

 

しかし、考えてみれば、アメリカ人も日本人も人として変わりがなく、何十年に一回の天体ショーに大騒ぎするのは自然なことなのだ。改めてそう思った。ただ、やはりその惹起される社会現象のスケールがデカイという印象は残る。

 

次に8/25からのハリケーン「ハービー」、初め画面の表記「Harvey」を見てハーベーだと思ったが、後でハービーだと分かった。ここでも避難する車の大移動の様子が報道されていたが、その風景に映画のワンシーンを見るような想いがした。

 

「ハービー」はカテゴリー4というモンスター・ハリケーンで被害も甚大だった。TV画面に映し出される被害地の中には津波を思わせるような被災状況も見られた。

 

しかし、住宅地域が完全に水で埋没した映像では、そのエリアの広大さと、併せて一軒一軒の区画の広さと建物の大きさに驚いた。何と住宅事情の違うことか、改めて呆れる。水とガソリンの不足の報道もされていたが、飲み水を求めて長く続く車の渋滞の映像は、やはり車社会_アメリカを想わせるものだった。

 

日本でよく見る避難所の映像が殆どないのも興味深かった。避難した人々は何処にいたのだろうか。また、テレビ局のスタジオと思われる所に臨時に設置された寄付を募るテレホンセンター?では、電話対応をしている男女等が著名、無名かは分からないのだが、その現場に流れるリラックスした様子は日本のものとは全く異なり、やはり興味深いものだった。

 

自然現象によって受ける影響は、人類としてどの国の人々にとっても変わらないものだが、その在るところの社会性/文化性の違いにより社会に表れる現象は結構異なるものだとつくづく思った。特に、人工国家、移民国家であるアメリカ(USA)の動向は、やはり気にかかり且つ興味深い。

 

この投稿記事を書いている今、またカテゴリー4か5のハリケーン「イルマ」がフロリダ方面に向かっており、TV画面にはまた避難する車の大移動の様子が映し出されている。ハリケーンと言い、トルネードと言い、アメリカも日本と同様に天然災害の多い国土であることを改めて認識した。

ふしぎな珈琲のはなし

  • 2017.09.03 Sunday
  • 11:19

コーヒーを砂糖抜きにするようになったのは何時頃からだったろうか。定年を境にする時期だったのではなかったかと思うのだがはっきり憶えていない。若いころは積極的にコーヒーを飲む方ではなかった。たまたま、或いは付き合いでを飲んでいたように思う。勿論、砂糖/ミルク入りが普通だった。

 

しばらく前、コーヒーは身体に良いなどと言われた時があって、それが進んで砂糖抜きミルク入りコーヒーを飲むようになった時期と重なっているように思う。どちらにしても未だ十年経ったかどうかという位の年数だ。その後、ミルクも抜いて完全にブラック・コーヒーを飲むようになったのは数年前からである。

 

じぶんがコーヒーを好んで飲むようになったのには、周囲にコンビニ・コーヒーを始めさまざまなカフェが誕生してきたことも要因かもしれない。しかし、もっとも大きな要因はブラック・コーヒーを旨いと感じるようになったことだと思う。

 

この分岐点は定かではないが、何か体の生理(年齢がらみ?)の変化もあったのだろうかなどと思ったりもする。そして今は、真夏でもホットのブラック・コーヒーを好む。ミルクは未だしも砂糖が入ったコーヒーは別の飲み物としか思えなくなってしまった。

 

家で飲むコーヒーはお湯を注ぐだけのインスタントから、コーヒー粉を買ってきて自分でドリップするようになった。一年ほど前から、豆を買ってきて自分で挽いてみたりするようにもなったが、さすがに面倒なのでお手頃のコーヒー粉をドリップするのが主流となっている。ドリップするのは苦にならない。

 

それにしても、何故ある時期から急にブラック・コーヒーを美味しく感じるようになったのか、今でも謎である。若いころは胃腸が弱く、コーヒーはむしろ胃に負担がかかるような感覚があった。それが今は空きっ腹にブラック・コーヒーが心地よい。

 

何でこんな風になってしまったのか不思議だ。が、何か明快な理由/原因があるのであれば知りたいと思う。若い頃は体質的にお酒は常用にはならなかったが、老いてコーヒーが常用となった。想像もしなかったことだ。やはり、体質(脳も含め)の変化ということがあるのかもしれない。

 

「コーヒールンバ」(wikipedia)という流行り歌があった。日本では60年代の初めに西田佐知子が歌った曲がよく知られている。

 

コンガ マラカス
楽しいルンバのリズム
南の国の情熱のアロマ
それは素敵な飲みもの
コーヒー・モカマタリ
みんな陽気に飲んで踊ろう
愛のコーヒー・ルンバ

 

歌詞の一部だが、少年の耳にはコーヒー・モカマタリが ” コーヒーのカマタリ ” に聞こえて、”鎌足?” などと歴史上の人物を思い浮かべツッコミを入れたことを思いだす。モカマタリとはイエメンで産出されるコーヒーの呼称?らしいのだが、「コーヒールンバ」の頃と同じものを今でも飲めるのかどうかは知らない。

 

どちらにしても、昔からコーヒーは歌になるほどふしぎな飲みものだったのだ。それがやっとこの歳になって分かってきたということか。このことは数少ない老いて得したことの一つだ。それにしても、旨い色んなコーヒーを安く飲めるようになった今の環境は大歓迎だ。

 

先日、千葉県のKASHIWANOHA T−SITE(TSUTAYA)までドライブをしてきたが、本とグッズとカフェが共存した心地よい空間を作り出していた。やはり、書店とカフェはベストマッチングの組み合わせだ。

 

進撃の巨人現る!!

  • 2017.08.28 Monday
  • 21:23

二年前にネット・アニメ(無料版)で『進撃の巨人』を知り、一年前にTSUTAYAでコミックを1巻から18巻まで借りて読み、19巻目からコミックを買い始めた。19巻、20巻は買ってすぐに読み終えたのだが、21と22巻はそのままビニ本のままになっていた。

先日、23巻を買ったのを機に三冊を通し読みした。そして第22巻で進撃の巨人が現れたのである。初め「進撃の巨人」とは変なタイトルだなと思っていたのだが、特に詮索もせずアニメを見て、コミックを読んできた。ところがついに現れたのである。

巨人が人を喰らうという物語は普通であれば猟奇的な感じがするものだが、『進撃の巨人』にそんな印象は持たなかった。どちらかと言えば、ストーリーの背景とその展開にむしろファンタジー性を感じた。何故か人間が石の「壁の内」に住み、壁の外に得たいの知れない無垢(無知)の巨人が居る。巨人は人を喰らうが食用ではない?ようだ。現世界とは無縁のファンタジー界の物語であろうと感じるのは当然だ。

しかしストーリーは進展して、主人公エレンのように人間が巨人に変身できることも明らかになっていく。さらに「壁の内」に、エレンの他にも巨人に変身できる仲間がいることが分かってくる。女型の巨人、鎧の巨人、超大型巨人などの知性を持つ巨人たちである。

そして第21巻で、「壁の内」の巨人に奪われたエリア奪還作戦の中で、主人公エレンの父親が書き残したノートからこの世界の秘密が明らかになる。じぶんも、「エッ、話はそういう方向へ行くの」と驚くような展開である。この世界には「壁の内」の人間と、壁の外の巨人しかいないと思わされてきたのだが、海を越えた大陸には広大な人間社会が存在していたのである。

さらに、これがこのストーリーの核心?なのだが、「壁の内」の人間は始祖ユミル・フリッツが大地の悪魔との契約で ”巨人の力” を手に入れた民(ユミルの民)の末裔なのである。始祖ユミルは死後九つの巨人に魂を分け、そしてエルディア帝国が築かれた。帝国は巨人の力により1700年間世界を統治したが、内戦により弱体化し終にマーレ国に敗れる。エルディア145代の王は争いを嫌い一部の民と共に辺境の島の「壁の内」に逃れる。

ユミルの民は巨人の脊髄液を注入されることにより無垢の巨人に変身できる。マーレ国は残されたユミルの民を自国の兵器として利用、さらに辺境の島の「壁の内」のユミルの民は悪魔であると洗脳し、殲滅作戦に参加することを強要する。

そして、この辺境の島はマーレ国によるエルディア人流罪の地でもあり、咎を受けたエルディア人は無垢の巨人に変身させられ、「壁の内」の同族の民を殺戮することになる。

これがこのコミックの始まり(第1巻)の背景だったのである。そして、女型の巨人、鎧の巨人、超大型巨人は九つ分けられた始祖ユミルの魂が宿った巨人たちであり、さらに始祖の巨人、獣の巨人、そして第22巻で主人公エレンが父親から引き継いだ「進撃の巨人」が判明するのである。ここでタイトルの意味が初めて分かった。

しかし、第23巻の物語の展開が心配になってきた。大陸にはマーレ国に対峙する連合があり、時はエネルギー、科学兵器の時代へと移りつつあり、巨人兵器の時代は終焉するという話になってきているのである。どっかの世界の歴史に似てきた。これは困る。せっかくのファンタジーから飛び出してしまう。

今、A・キンブル著/福岡伸一訳『生命に部分はない』を読んでいる。内容は、分子生物学の発展に伴う人間パーツ・ビジネスとも呼べる社会現象に関わる話なのだが、とても怖い話である。このような現世界の現状を考えると巨人化のはなしも妙に現実味を帯びてくる。出来れば『進撃の巨人』はこちらの世界とは遠い世界の物語であってほしい。

幸い、このコミックの中では、「壁の内」に隠蔽されていると思われる全ての巨人を制御できる「始祖の巨人」を手に入れることができれば、全く状況が異なってくるという設定になっている。個人的には、現世界の歴史を辿るような状況にはならないことを願っている。しかし、本コミックはストーリーがカオス的であるという印象があるので、まだまだ期待できると思っている。取り敢えず12月の第24巻を待とう。

関連投稿: 「進撃の巨人」を知ってしまった (2015/04/11)

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